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【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ④

 投稿者:夕凪  投稿日:2018年 8月 9日(木)03時45分10秒
編集済
  ● 備忘録ノ-ト(2) 妓楼数の変遷


明治41年07月(1908年:開設時)1軒

 ①篠山楼(娼妓数 7名)


明治41年12月(1908年)12軒 娼妓数 79名

 ①吉野楼(14名)②小川楼(06名)③彦根楼(12名)④田中楼(08名)
 ⑤一力楼(08名)⑥常盤楼(05名)⑦金松楼(02名)⑧高森楼(02名)
 ⑨鬼楽楼(04名)⑩都 楼(07名)⑪藤田楼(05名)⑫戎 楼(06名)


昭和33年01月(1958年)10軒  ※廃業:昭和33年03月30日(1958年)

 ① 旭 、②松月、③細見、④都一、⑤都二
 ⑥千草、⑦大正、⑧萬可、⑨昭和、⑩一楽


●赤線 八上新地 (篠山町)

 明治40年(1907)、歩兵七十連隊の設置とともに形成された遊郭で、
 翌41年許可されたもの。

 昭和33年1月には、業者10人、売春婦14人、引き手13人がいたが、3月30日に至って閉鎖。

   飲食店・・・2、住宅・・・2、自動車運転者・・・2、呉服商・・・1、農業・・・1、
   公務員・・・1、郵便局員・・・1に転廃業した。

 その後の動静は全く健全である。
                      兵庫県発行の1959年の資料より



●その他の京口新地に在った妓楼(年代不詳)

 金瓶楼 ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/120.html

 美屋古楼(大正6年:1917年頃)ttps://edu.city.sasayama.hyogo.jp/c-library/syoukai/kyodo/5/122.html



 
 

【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ③

 投稿者:夕凪  投稿日:2018年 8月 9日(木)03時01分9秒
編集済
  ●備忘録ノ-ト(1)

1.『はじめての愛 あべ定さんの真実を追って…』の著者である
   丸山友岐子さんにお聞きしたかった ・・・・

   丸山友岐子(1934~1995)
   ttp://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/40246.html


2.なんで「港公民館」なの? 「京口(きょうぐち)」と「港(みなと)」

  ttps://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei24n.html


3.旧細見楼と旧大正楼分店(FBより)

  投稿者は『秋田県の遊廓跡を歩く』を執筆された方です。
  現地で、裏手の川を挟んで向かいにお住まいの方からお聞きしたそうです。

  (1)旧細見楼 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484323678309427&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater

  (2)旧大正楼分店 ttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=484324858309309&set=a.373223606086102.87016.100001953980021&type=3&theater




  
 

【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ②

 投稿者:夕凪  投稿日:2018年 7月20日(金)11時36分2秒
編集済
  徒然なるままにインターネットで遊んでいると、
たまに驚くような情報に出会います。

今回がまさにそれでした。なんと
“ 大正楼の宿屋兼特殊飲食店の営業許可証 ”に
巡り会ってしまったのです(赤い糸?)。

 ttps://aucview.aucfan.com/yahoo/b158731794/

この許可証には 大正楼の住所が“ ▲77-4 ”と記載されています。

この住所をgoogleマップで検索すると、乃木ビンゴ!
京口新地の一角に赤い「ピン」が立ちました。
でも残念ながら、その場所は大正楼跡とされる地点ではありません。
大正楼跡とされる場所の対面(トイメン)の一画を指し示しました。
※大正楼跡とされる場所の住所は“ ▲79-26 ”でした。

篠山市役所にお聞きしたところ以下の事が分かりました。

①現在も篠山市には住居表示の制度がなく“ 地番 ”のみを使用している。
②1930年に旧篠山町が八上村等と合併し新篠山町となった時も、
 旧住所以下の番地は、そのまま旧来の番地を引き継いだ。

以上の事より、現在、大正楼跡とされる場所にあるアノ建物は、
1946年大正楼に特殊飲食店としての営業許可が下りた
“ 大正楼 ”の建物では無い事になります。

(参考)
※京口新地の指定区域は“ ▲76~▲79 ”です。
※ちなみに阿部定さんは1931年頃6か月間ほど大正楼にいたそうです。

はたして真実の“大正樓”は何処にあったのでしょうか?
また現在のアノ大正楼とされる建物は一体何なのでしょうか?
※正直、アノ大正楼とされる建物が何かについては分かりませんでした。
 もっとも、ネット上では大正楼分店との情報があります。

中途半端な書き込みで不完全燃焼の思いをされた方もいらっしゃるかと
思いますが御容赦ください・・・・

 

【 京口新地 】 真実の “ 大正樓 ” は 何処に !? 【 阿部 定 】 ①

 投稿者:夕凪  投稿日:2018年 7月18日(水)23時32分46秒
編集済
  大正楼 京口新地 篠山 etc. をキーワードにしてネット検索すると
必ず角店でその四角い角を切り取ったあの建物の画像が出てきます。

でも、どうして画像のあの店が“ 大正樓 ”であると特定したのか、
その理由を述べた書込みを見た事はありません。
自明のように“ 大正樓 ”として扱われています。
googleマップでも、あの建物の場所を“ 大正樓跡 ”としています。

私の知る限り“ 大正樓 ”の建物を推定しようとする試みは
木村聡さんが『 実話ナックルズ 』(2010年7月号)に書かれた
「幻ではなかった 阿部定がいた遊郭」と言う記事のみです。
(または木村聡さんの記事を拠り所とした書込みばかりです。)

その木村さんの記事も、「(木村さんの訪問時に残存した)
この3軒のうちどれかがそうだとしたら、答えを出すのは簡単だ。」
と、慎重に前提を置いて書かれておられ、

丸山友岐子さんと言う作家が自著執筆の為に
タクシーの運転手に京口新地へ案内してもらい、
元「大正楼」の御主人にインタビューをされ、
著書の中で、大正楼の造りについて

 四角い家の一角を切って多角形にし、
 どの道から来る客もキャッチしようという娼家の知恵。
 飛田だけでなく、松島も、篠山も
 角店は殆んど例外なく、四角の角を切って玄関にしていた。

と、簡単に描写されているのを、その根拠とされています。
※丸山友岐子著『 はじめての愛-阿部定さんの真実を追って・・・ 』
(かのう書房、1987年2月25日発行)

でも『 はじめての愛 』の中には
「百年を経た床板はみがき込まれて黒光りしていた。」とか
明らかに誤った記述(誇張or省略?)も見られます。
∵同書発行(1987年)時、京口新地(申請時は池上村貸座敷)は
明治41年(1908年)開業から79年しか経っていません。

はたして、真実の “ 大正樓 ” は 何処に !?

 (以下、続く)


 

渡辺寛著作リスト(更新版)

 投稿者:夕凪  投稿日:2017年12月10日(日)01時08分22秒
編集済
  ●渡辺寛氏の著作リストを更新しました。
 ※出版順で記載しました。

№ タイトル 掲載誌 発行年 備考
---------------------------------------------------------------------------
01.詫びる(小説) 文学評論 1935.05.01 新人推薦号
02.郷臭 (小説) 日本浪曼派 1935.06.XX
03.退潮期の一挿話 (小説) 日本浪曼派 1935.08.XX
04.大島紀行 (小説) 日本浪曼派 1936.04.XX
05.水晶 (小説) 日本浪曼派 1936.09.XX
06.弁慶橋 (小説) 日本浪曼派 1937.03.XX
---------------------------------------------------------------------------
07.赤線区域の経済白書 東京案内 1954.01.30
08.赤線漫談 東京案内 1954.05.01
09.赤線凉談 東京案内 1954.07.01 新東京通信編集長 渡辺寛
10.あのまち・このはな花街めぐり 東京・ヨコハマなんでもわかる 1955年版 1955.04.20
11.よるの女性街・全国案内版 旅行の手帖 №20 美女・民謡めぐり特集 1955.05.20
12.『全国女性街ガイド』 1955.08.20
13.よるの女性街・全国案内版  旅行の手帖 №23 美女・民謡めぐり特集 1955.08.20
14★旅の女 わらぐつ 週刊サンケイ読物 1956.02.05
15.女体風土記 東北地方の巻 面白倶楽部 1956.03 光文社
16★旅の女 桃 週刊サンケイ読物 1956.03.25
17.千人の職業女性に接した私の結論 100万人のよる 1956.04.01
18.旅の女 京の桜 週刊サンケイ読物 1956.04.08
19★旅の女 山王祭 週刊サンケイ読物 1956.04.15
20.旅の女 野宴 週刊サンケイ読物 1956.04.22
21.『鄙びた湯・古い湯治場』 1956.06.01  新東京通信編集局長 渡辺寛
22.遊ぶ湯の里 芦原 百人百湯‐作家・画家の温泉だより‐旅行の手帖 1956.06.20 随筆家 渡辺寛
23.女が名物の秋の温泉旅行ガイド 熱海・伊香保・湯村・伊豆長岡・白浜・城崎・粟野岳・定義温泉 100万人のよる 1956.10.01
24.『温泉・女・風土記』 1956.11.15
25.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.01.01 大鰐・道後温泉
26.『酒と女』 1957.01.25 ※著者氏名なし
27.東西温泉千夜一夜 100万人のよる 1957.02.01 沼尻・玉造温泉
28.東西温泉千夜一夜 塩原と下呂の巻 100万人のよる 1957.04.01
29.東西温泉千夜一夜 肘折と和倉の巻 100万人のよる 1957.05.01
30.私は知りたい 100万人のよる 1957.06.01 随筆家
---------------------------------------------------------------------------
31.女のいる全国避暑地ガイド 100万人のよる 1963.08.01 新東京通信社 渡辺寛&旅行家 中山勇治 共同編集
 

料理旅館業についての御願い:長野新地

 投稿者:夕凪  投稿日:2017年 7月28日(金)11時27分38秒
編集済
  昔、投稿したものですが御参考までに(6)

●料理屋営業の継承願い(河内長野市長野町観光協会 → 大阪府公安委員会)

(前略)該氏は河内長野の名望家として之亦人格識見共に優れており
 最近、旅館を譲受けられて現在旅館業を経営中であります。

 両氏は今般何も料理旅館業の許可を受けたいと熱望して居ります。

 かねてより同地区長野新地との悪名がありますが、
 之は戦前に経営宣伝の方策として使用した一地名に過ぎず
 一般に言う従来の遊郭地名と同一視され勝ちなものでは決してなく
 その営業内容が証明されるのであります。

 特に最近においては町名も公園通りと変更し
 その経営方針も亦一新大いに見るべきものがあります。


                      (申請年月不明)
 

長野温泉郷の誕生:長野新地

 投稿者:夕凪  投稿日:2017年 7月28日(金)11時26分20秒
  昔、投稿したものですが御参考までに(5)

●河内長野に〝 温泉郷 〟

  河内長野市の長野観光協会では同市長野町、
 府立長野公園下の石川ほとりからわき出る鉱泉で、
 付近一体の温泉開発を計画していたが、
 このほど府温泉審議会の許可が内定したと通知があった。

 近く湯量調査をしたうえ工事にかかり、
 来春には「長野温泉」の看板を掲げて開業したいといっている。

 この温泉の中心は黄金橋と落合橋の間の石川右岸にあり、
 明治の末から大正にかけ、
 同市古野町の極楽寺が境内へ引いて「極楽寺温泉」と名づけていたもの。

 その後、利用されぬまま放って置かれたのを昨年、
 地元観光協会が同から使用権を譲り受け、
 府温泉審議会へ温泉許可を申請していた。(中略)

 将来は旅館や大衆浴場の誘致もはかり、
 同市三日市、天美と肩を並べる温泉郷として売り出したいという。


                  1961年3月の※日新聞より
 

河内長野の季節仲居

 投稿者:夕凪  投稿日:2017年 7月28日(金)11時14分35秒
編集済
  昔、投稿したものですが御参考までに(4)

●ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。
“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。

バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。

どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、マツタケ狩りに精を出している。
以前は店の2階へ誘っていたが、取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。
ここで面白く遊ぼうと思ったら10時を過ぎて行くとよい。

河内長野はマツタケの産地としても有名で、マツタケ狩りのお客も多い、
そうしたお客を迎えるため、『八○』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。

この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。
こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。

「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・

                      1972年の成人雑誌より


※“河○長○の温泉街”で検索すると、チョットだけ雰囲気を味わえるかも・・・・・
※“こつまなんきん”は今東光原作の映画(1960年)のようです。
 

長野温泉と長野新地

 投稿者:夕凪  投稿日:2017年 7月28日(金)11時11分51秒
編集済
  昔、投稿したものですが御参考までに(3)

●長野温泉の存在する場所は、天見川と滝畑川の合流点にあり、
 山あいを貫流する石川の流れにそって、わずかの地にひらけた。
 俗に『長野新地』といわれているところに湧出している。

 温泉地には、歓楽的欲求を満たす施設は、欠くことのできない存在であるが、
 長野新地にはこの点において多彩な条件をそなえており、

 南海・近鉄両駅前には商店街・河畔には旅館、背後の東山一帯は長野遊園地として、
 とくに夜桜時機のバルコニーは、独特の情調をかもし逍遥地に適している。


●長野新地の生まれたのはS8年都市計画法ににもとづくもので、
 用途地域として『住宅・商業・興業・遊園』の四地区に分けられ(内務省)、
 カフヱ歓楽街長野新地としてデビューした。

 当時、店の数は30軒、女給・仲居さんの常備が150人、
 花見時や松茸狩時の非常時体制300~400人であった。

 その後第二次世界大戦を経て終戦をむかえ、

 長野温泉として脚光を浴びたのは
 S38~40年の『近鉄沿線温泉まつり行事』を大々的にやってからで、
 当時は観光ブームもあって隆盛をきわめた。


               1974年発行の郷土研究会の資料より抜粋

 

カフエ指定街の誕生:長野新地

 投稿者:夕凪  投稿日:2017年 7月28日(金)11時06分41秒
編集済
  昔、投稿したものですが御参考までに(2)

●カフエを集めて長野新地

 南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて
 新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は
 予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。

 場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で
 地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。

 町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工

 こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。

 現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だが
 これからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。


                1933年4月の大阪※日新聞より

 

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