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3. クロアチア独立国の警察組織

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 9月10日(月)19時38分36秒
   クロアチア独立国の警察組織は大きく分けて2つの組織から構成されており、内務省管轄で通常の警察組織である治安警察(Redarstvena Straža)とともに、軍管轄の憲兵隊(Hrvatsko Oružništvo)も警察活動を行いました。

 治安警察は1941年4月にユーゴスラヴィア王国時代の警察組織を引き継ぐ形で設立され、約5,000名の制服、私服警察官が配置されていました。設立時には王国時代からのセルビア人警察官はクロアチア人警察官に置き換えられました。設立当初クロアチア治安警察は内務所の管轄でしたが、1942年6月26日から10月15日までの間はウスタシャの管轄下に移管され、1942年10月15日から終戦までの間は治安及び保安部局の管轄下となりました。ウスタシャの管轄に吸収される前には治安警察はクロアチア版ゲシュタポ/SDであるUNR(Ustaška nadzorna služba)とは無関係であったため、住民の信頼を得ていました。1942年6月26日以降はこの区分は曖昧になり、治安警察はUNRの残虐行為に関与するようになりました。地区(Župa)と郡(Kotar)レベルではUNSの指揮下で反体制勢力の収容所への輸送や処刑を支援するため治安警察も動員されました。
クロアチア治安警察の警察官は戦争の期間を通じて約5,000名に留まり、全国で22箇所の地区(Župa)にザグレブ地区を加えた合計23地区(合計142郡)に5,000名の警察官が広く分散配置されて警察業務を行いました。

 クロアチア独立国軍の憲兵隊は1941年4月30日に設立され、当初はMilan Miesler少将が、その後Tartaglia少将が、1942年秋以降はViljko Pecnikarウスタシ大佐が指揮をとりました。前身は1939年にバノビナ州で設立されたユーゴスラヴィア王国陸軍の憲兵隊であり、1941年4月中旬には崩壊した王国時代の治安組織を再建し、地域の警察活動を代替・継承するため警察業務を行うこととなりました。1941年4月30日の時点で約6,000名の兵力により第1~第4連隊の4個憲兵連隊が編成されました。1942年1月には2個連隊が新編成され、1942年春には6個憲兵連隊で兵力は11,600名まで拡大されました。またボスニア=ヘルツェゴビナでは1941年6月初めに憲兵隊の指揮下で武装民兵組織が設立され、チェトニク及びチトー・パルチザン双方から町村を防衛しました。この民兵組織の兵力は最大で約7,500名まで拡大されました。
 1942年6月26日、憲兵隊は国防省からウスタシャの管轄下に移管され、治安警察組織と統合運用が図られました。1942年11月1日にはブイェロバル(Bjelovar)に憲兵学校が設立され、2年コースにより憲兵教育が開始され、1944年の終わりには第1期の卒業生1,200名を送りだしました。1943年初めには第2期のコースが始まり1,600名の訓練生がいました。1943年1月18日、憲兵隊はウスタシャの管轄から新設された軍隊省(MINORS)に移管されましたが、1944年2月には内務省の管轄となりました。
 各憲兵連隊は主に地方での巡回パトロールを任務としており、チェトニクやチトー・パルチザンの宣伝に対抗して住民に国の法と秩序が存在することを宣伝する、まさに「最前線」で活動しました。一個連隊の兵力は約2,000名で連隊の半数が駐屯地の警備を行い、半数は担当地域内のパトロールを行いました。憲兵隊の駐屯地や拠点は襲撃を受ける場合も多く、その際には救援が到着するまで籠城するため強固に防御されていました。憲兵隊の損害は比較的大きく、例えば1942年4月17日までの最初の53週間の間に283名の将校と兵が戦死し、245名が行方不明、192名が負傷しており、これは人員の約10%にも達していました。1943年9月時点の最大時の兵力は7個憲兵連隊と憲兵学校を含めて約17,500~18,000名に達しましたが、戦争末期の兵力は5個連隊で約10,000名となっており、2個連隊はダルマチア(Dalmatia)とヘルツェゴビナ(Hercegovina)でパルチザンにより壊滅されていました。

・第1憲兵連隊:在ザグレブ(Zagreb)
・第2憲兵連隊:在スプリト(Split)
・第3憲兵連隊:在バニャ・ルカ(Banja Luka)
・第4憲兵連隊:在サラエボ(Sarajevo)
・第5憲兵連隊:在モスタール(Mostar)
・第6憲兵連隊:在クニン(Knin)
・第7憲兵連隊:在ゼムン(Zemun)

また、1943年1月以降はクロアチア軍の鉄道保安部隊も警察の所管に編入され、警察部隊が強化されました。
 
 

2.クロアチア独立国

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 8月22日(水)22時15分14秒
編集済
   クロアチア独立国は首都をザグレブ(Zagreb)と定め、4月10日に建国が宣言されました。5月18日にはトミスラヴ二世(サヴォイア家のアオスタ公アイモーネ)が国家元首である国王に即位しましましたが、国王の地位はあくまで象徴的なものであり、国王自身も身の危険を感じてイタリアに留まりました。実際に権力を掌握したのはクロアチア民族主義組織「ウスタシャ」のアンテ・パヴェリチで、首相と外相を兼任する国家指導者に就任しました。クロアチアの領土はスロヴェニアのドレンスカ地方、クロアチア(イタリアの占領したダルマチア地方を除く)、ボスニア・ヘルツェゴビナ及びヴォイヴォディナを含み「大クロアチア地域」と呼ばれました。
 しかし、もともとテロ組織でしかない「ウスタシャ」に国土の統治などできるはずもなく、本来の「お仕事」である敵対勢力の排除、つまりセルビア人やユダヤ人の抹殺に精を出して後世に悪名を馳せることとなり、実際はドイツによる傀儡国家と変わりませんでした。

 クロアチア独立国の主な兵力にはクロアチア軍、ウスタシャ、武装親衛隊、ドイツ国防軍のクロアチア人部隊がありました。このうちクロアチア軍は1941年4月16日に設立され、陸・海・空の三軍を保有し、最大の兵力は「国土防衛隊」とも呼ばれた陸軍で10個~15個の歩兵及び山岳師団を中心に編成されていました。しかし1個師団は約5,000名で、ドイツ軍の連隊~旅団規模であり主要任務は治安維持任務でした。また海軍は5,000トン以下の艦艇しか持たない沿岸部隊で、空軍も装備機材は旧式機が中心でした。クロアチア軍の指揮下にはこのほか国境警備隊、憲兵、労働隊があり、総兵力は55,000名で、旧ユーゴスラビア王国軍の軍管区を踏襲していました。
 ウスタシャはパヴェリチの私兵であり、20個旅団程度の兵力を保有していましたが、ドイツ人でさえ顔をしかめるような残虐行為のみで名をはせる存在で、クロアチア軍以上に使い物になりませんでした。ウスタシャはクロアチア軍のことを「パルチザン補給部隊」と呼んでいましたが、目くそ鼻くそのレベルで・・・(笑
 武装親衛隊では1943年春にボスニアのイスラム教徒とクロアチア人志願兵により第13SS山岳師団「ハンジャール」と、1944年春に第23SS山岳師団「カマ」の2個師団をはじめとする義勇兵部隊が編制されましたが、政治宣伝用の意味合いが強く戦力としてはあてになりませんでした。

 ドイツ国防軍のクロアチア人部隊はクロアチア人をドイツ軍が訓練した部隊で、戦力として最も期待されていました。クロアチア人義勇兵は当初は第100猟兵師団の第369(増強)連隊に送られましたが、連隊はスターリングラードの戦いで包囲され降伏しました。このため連隊から後送された負傷兵や新規志願兵により1943年前半に第369歩兵師団、第373歩兵師団が、1943年秋には第392歩兵師団の3個師団が編成されました。これらの部隊の運命については他にお任せして、いよいよ本題の警察部隊についてです。(笑)
 

1.ユーゴスラヴィア王国の成立と分割

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 8月22日(水)22時13分52秒
編集済
   第1次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国領であったバルカン半島ではセルビア王国を拡大する形で1918年にセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人による連合王国である「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」が建国されました。1929年には国王アレクサンダーI世により憲法が停止されて国王独裁制へと移行し、国名も「ユーゴスラヴィア王国」へと改称されました。
王国はセルビア人中心の国家体制となり、当然クロアチア人とスロヴェニア人にとっては不満の原因となりました。クロアチアでは特に独立意識と反セルビア感情が強く、不満を抑えるため1939年には自治権が大幅に拡大されてクロアチア自治州が設立されました。
 第2次世界大戦の勃発時、ユーゴスラヴィア王国政府は親ドイツ路線をとり、1941年3月25日には同盟まで締結されましたが、これに反対する国軍のクーデターにより政権は転覆しました。新政権もドイツとの同盟堅持を宣言したものの、1941年4月6日にドイツ軍を中心とした枢軸国軍の侵攻を受け、4月17日には降伏しユーゴスラヴィア王国の領土は分割占領されました。
スロヴェニアの北部3/2はオーバークラインとウンターステイヤーマルクとしてドイツ本土に併合され、南部1/3とダルマチアの一部はイタリアに併合されました。セルビアにはセルビア救国政府が樹立され、ユーゴスラヴィアの継承国家と主張しましたが、実質的にはドイツの傀儡政権でありドイツ占領下と同様でした。またセルビア北部、ヴォイヴォディナ地方の北西部(バチュカ地方)はハンガリーに併合され、バナト地方はドイツ占領下となりました。モンテネグロはモンテネグロ独立国としてイタリアの傀儡政権が樹立されましたが、これも実質的にはイタリアに併合されました。さらにコソボはアルバニアに併合され、マケドニアはブルガリアに占領されました。そして大クロアチア地域(クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ)はクロアチア独立国として独立しました。
 

クロアチアのドイツ-クロアチア警察部隊

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 8月22日(水)22時13分22秒
   ロシアワールドカップはクロアチア代表のまさかの大活躍で盛り上がりましたが、第2次世界大戦中に建国され、ドイツの敗戦によりあえなく消滅した「クロアチア独立国」をご存知でしょうか。ドイツによるユーゴスラヴィア王国への侵攻後にクロアチア人を味方にするためにドイツ主導で建国された国にも「警察」はもちろん存在しました。  

降下猟兵の軍装・兵器・装備

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 8月22日(水)14時24分41秒
  パラシュート:ユーゴスラヴィア王国空軍が導入したのは意外にもアメリカ製の「Irvin」型パラシュートで、インジャ(Indjija)のKnebl und Ditrih社においてライセンス生産されました。このパラシュートは降下兵が手動操作で開く形式となっており、訓練中の事故も発生しています。【補足-1】

降下服:1942年の時点でクロアチア降下猟兵は旧ユーゴスラヴィア王国軍時代の降下服を使用していました。これは通常のグレーブルーの空軍制服の上にグレーグリーンの降下用オーバーオールを重ね着する方式でした。しかし、1942年12月に行われた降下訓練では2名の訓練生が墜落死する事故が発生しました。これは上空の寒気により訓練生が降下中に気絶し、パラシュートの操作ができなかったためと考えられました。この事故によりこの降下服は冬季のパラシュート降下には不十分であることが判明し、1942年末には「Knebl und Ditrih社」において新型降下服が設計・製造されました。
新型降下服は迷彩オーバーオールとなり、茶色、緑、黄色で及び灰色による斑点迷彩も採用されていました。この新型降下服は着心地もよく、より多くの装備品を収納できるようになりました。新型降下服には大型の斜めポケットが胸部に2か所、中型の垂直ポケットが腰に2か所、小型の斜めポケットが左腕に2か所、背中に1か所、前腕部に1か所ありました。さらに別の小型の斜めポケットが右前腕部に設けられました。すべてのポケットは丈夫な金属ジッパーで閉めることができました。脚部には4か所のフラップ付きのポケットが設けられ、ボタンで留めることができました。このうち2か所は前面に設けられ、あとの2箇所は横向きに設けられました。また袖口、足首、腰は調整可能となっていました。降下猟兵用の装具は茶色の革製ベルトとショルダーストラップで、左肩から斜めに掛けられました。これに弾薬入れと銃剣、さらに水筒やその他の装備品が取り付けられました。

ヘルメット:旧ユーゴスラヴィア王国軍時代の制服と新しい迷彩降下服は、いずれもクロアチア戦車乗員用の革製ヘルメットと組み合わせて使用されました。戦闘時、降下猟兵はドイツ軍のM35型ヘルネットも使用しました。

空軍の制服:降下用迷彩スモックを着用しない時は通常のグレーブルーのクロアチア空軍の外出用制服が着用されました。制服の左胸に付けられたクロアチアパラシュート資格バッジと左腕上腕部に装着された開いたパラシュートの金属製バッジで、降下猟兵であることがわかりました。

装備火器:クロアチア降下猟兵は旧ユーゴスラヴィア王国軍とドイツ軍の兵器を混用していました。主要火器はマウザー(Mauser)系列のボルトアクション式小銃でしたが、旧ユーゴスラヴィア王国軍時代からの7.65mm小銃と、7.92mmのM24小銃がありました。オーストリア=ハンガリー帝国陸軍時代のマインリッヒャー(Mannlicher)製7.65mm小銃もおそらく少数が使用されました。これらの小銃には銃剣の装着も可能でした。1943年になると降下猟兵用装備としてMP41サブマシンガンが配備されました。MP41はMP40サブマシンガンのピストルグリップと折り畳み式銃床を木製銃床に変更した型で、1941年に開発され主に治安維持部隊等で使用されていました。また原型のMP40も少数ながら装備されていました。
 拳銃はマウザー(Mauser)7.62mm/C96自動拳銃やルガー(Luger)拳銃も少数が使用されました。支援火器としては旧ユーゴスラヴィア王国軍から引き継いだチェコスロバキア製ZB30軽機関銃を装備しましたが、1943年になると7.92mmのMG34軽機関銃が装備されました。写真によると中隊にはフランス製1924 M29軽機関銃も装備された模様で、これはフランス軍からの捕獲兵器がドイツ軍経由でクロアチア軍やセルヴィア軍に供給されたものです。1944年には7.92mmのMG15軽機関銃も装備目録に記載されています。
 降下猟兵は軽機関銃の他にポーランド製46mm軽迫撃砲も装備しました。これらの小銃、軽機関銃、軽迫撃砲はドイツ製の武器コンテナに収納して投下されることとなっており、武器コンテナを使った訓練時の写真が残されています。
 ユーゴスラヴィア王国軍時代に約100丁のトンプソン1928 A1サブマシンガンが50個のドラム弾庫とともに降下猟兵中隊用としてアメリカに発注され、1941年4月12日に到着しましたが、4月17日に降伏したため降下猟兵中隊には配備されませんでした。

輸送機:降下猟兵の輸送にはAvia Fokker 3発機が使用されましたが、この機体はドイツ軍から供給されたもので、プラハの捕獲機デポから供給されました。このうちの「F7」と「F18」の2機は戦前はチェコ航空の機体でした。もう1機は「F39」で、この機体は降下猟兵の降下以外に爆撃にも使用されたようです。
1943年7月6日には第1軽歩兵降下中隊によりザグレブのBorongaj飛行場で降下演習が行われた際には3機のAvia Fokker 3発機「F7」、「F9」、「F18」が使用されました。このうち「F7」は1943年11月にコプリブニツァがパルチザン部隊に攻撃された際に地上で破壊されました。1943年末、全てのAvia Fokker 3発機は400kg以上の貨物積載を制限され、ザグレブ地区に留まったようです。
 

降下猟兵部隊の設立

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 8月22日(水)10時31分37秒
   ユーゴスラヴィア王国空軍時代の1926年9月2日、最初のパラシュート降下訓練が開始され、1939年には空軍降下学校及び訓練部隊がベオグラード近郊のパンチェボ(Pancevo)に開設されました。空軍降下学校は1940年末にはノービサード(Novi Sad)の空軍基地へと移動して訓練が続けられ、1941年3月1日には空軍降下学校から「第1軽歩兵降下中隊」が編成されました。中隊の編成定数は兵員180~190名で、3個小隊と1個支援小隊から編成され、軽機関銃及びサブマシンガン×計12丁、重機関銃×2丁、歩兵砲×2門を装備する計画でした。しかし、実際に編成が完了したのは1個小隊のみでした。また戦時には第2中隊が編成される計画もあり、2個中隊で335名の兵力まで拡大される計画もありましたが、この計画も実現はしませんでした。

1941年4月6日、ユーゴスラヴィア王国はドイツ軍を中心とした枢軸国軍の侵攻を受け、4月17日には降伏してしまい降下部隊は出動の機会がないままサラエボで解隊されました。しかし数か月後にはユーゴスラヴィア独立国が建国され、クロアチア空軍内に再び降下猟兵部隊を創設する動きが始まりました。
 5月から12月の間に、降下部隊の創設が決定され、1942年1月には空軍の志願兵により「第1軽歩兵降下中隊」が編成されました。すべての志願兵は訓練開始前に健康診断と体力テストに合格する必要がありました。その後志願兵たちはペトロヴァラディン(Petrovaradin)に送られ、ここで基礎訓練が開始されました。
 最初の志願兵への基礎訓練が行われるのと並行して、コプリブニツァ(Koprivnica)に降下学校が開設されました。以前は化学工場だったDanicaの工場跡が接収され、1942年8月2日にはDolanski少佐とMirko Kudelic軍曹に指揮された22名の陸軍兵士が、古い工場の土地を降下部隊の訓練場と兵舎に改造するために到着しました。240メートルの長さの工場建物を改装するほか、木造兵舎と厩舎が建設され、隣接地には草地の降着地も準備されました。10月6日になると降下猟兵達は自身の降下学校のほかに、近隣の鉄道駅や飛行場の警備も担当することとなり、自転車化された1個分遣隊が派遣されました。さらに北東約10kmのBotovo近くのドラバ川に架かる橋の警備任務も追加されました。

 1942年8月15日、Dolanski少佐とMirko Kudelic軍曹はドイツのプレンツラウ(Prenzlau)近郊のヴィットシュトック(Wittstock)のにある降下学校に送られ、ここで彼らはドイツ降下猟兵の訓練の教訓と戦術について学び、同年10月20日にはクロアチアへと帰還しました。
 中隊の最初の降下訓練は1942年11月26日にAvia Fokker 3発機「F7」を使用して行われ、以後この機体は中隊の専属機となり降下訓練は2グループに分かれて行われました。しかし1942年12月19日の降下訓練では2名の訓練生が墜落死する事故が発生し、訓練は一時中止されました。事故は上空の寒気により訓練生が降下中に気絶したことによりパラシュートの操作ができなかったことが原因と思われ、これにより旧ユーゴスラビア王国軍時代から使用されている降下服の性能不足が明らかとなり、装備の改良が急務となりました。
 1943年4月7日、「Knebl und Ditrih社」製の新型降下服やドイツ製重装備用コンテナを使用した訓練が再開されました。1943年7月6日には第1軽歩兵降下中隊によりザグレブのBorongaj飛行場で降下演習が行われました。今回は3機のAvia Fokker 3発機「F7」、「F9」、「F18」が使用され、合計45名の降下猟兵により実戦的な降下演習が行われ無事成功しました。この演習には国家指導者のアンテ・パヴェリチや枢軸同盟軍であるスロバキア空軍の代表団も出席し盛大なものとなりました。第1軽歩兵降下中隊では以後も新兵の募集と訓練が継続され、定員の充足が図られました。
 

クロアチア独立国空軍の降下猟兵

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 8月22日(水)10時27分18秒
   ユーゴスラヴィアでの降下作戦といえばボスニアのドルヴァル(Drvar)で実施されたドイツ軍による「ロッセルスブルンク(Rösselsprung=ナイトの跳躍)作戦」でのSS第500降下猟兵大隊が有名です。それではクロアチア独立国空軍が独自の空挺部隊を保有していたのはご存知でしょうか?
 「どーせドイツ降下猟兵のコピーでしょ?」というそこのあなた、甘い!(笑
手軽な資料としておなじみの「MEN-AT-ARMS SERIES」の「AXIS FORCES IN YUGOSLAVIA 1941-5」には、クロアチア独立国空軍の部隊として降下猟兵中隊が1942年1月に編制されたことが記されています。実はこの部隊はユーゴスラヴィア王国時代に設立された降下猟兵中隊を起源としていました。それでは実際この降下猟兵中隊はどのような部隊だったのでしょうか?
 

最近の購入本

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 7月26日(木)10時28分58秒
編集済
  前回の日誌で書いた「The Oder Front 1945: Generaloberst Gotthard Heinrici, Heeresgruppe Weichsel and Germany's Final Defense in the East, 20 March-3 May」と前後して到着した本たち

Estonians in the Waffen-SS
ロシア人義勇兵本と同様にRolf Michaelis氏のエストニア人義勇兵本の英語版
根性ある方はドイツ語版をどうぞ(笑
https://amzn.to/2ActzKe

Panzerwrecks 22: Desert
もはや定番となった撃破されたドイツ戦車写真集。22冊目は北アフリカ戦線。
https://amzn.to/2LCMFNP
 

4カ月かかった、わけではない!

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 7月14日(土)09時30分14秒
  The Oder Front 1945: Generaloberst Gotthard Heinrici, Heeresgruppe Weichsel and Germany's Final Defense in the East, 20 March-3 May

前回は3月に注文して行方不明になっていたThe Oder Front 1945 Vol.1がやっととどきました。別にイギリスから4カ月の船旅をしたわけではなく、一旦キャンセルした後、最近近い値段で出たので、再注文したわけです。
内容はこんな感じ

Part I:戦闘の背景
Part II:オーデル戦線の防衛準備 3月20日~4月13日
Part III:4月14日~5月3日の戦闘
Part IV:追記
付録

まあ例によって書庫の肥やしかもしれませんが(笑

The Oder Front 1945: Generaloberst Gotthard Heinrici, Heeresgruppe Weichsel and Germany's Final Defense in the East, 20 March-3 May

https://amzn.to/2Lji5FX
 

最近の購入本

 投稿者:のりっく  投稿日:2018年 7月11日(水)22時50分56秒
  「砲兵」から見た世界大戦: ――機動戦は戦いを変えたか
砲兵といえばどこからともなく飛んでくる砲撃により「あたかも自然現象のような」という表現がぴったりです。しかしその発展過程は第1次大戦~戦間期~第2次大戦の間に紆余曲折があり、意外な苦労があったようです。砲兵の視点でのこのような研究は類書がなく、砲兵がどのように変化し発展したかがよくわかり、お勧めです。

「砲兵」から見た世界大戦: ――機動戦は戦いを変えたか
https://amzn.to/2upJ2Aa
 

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