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第二章 人生観
考えて見れば、考えるほどに人間、この得体の知れない動物、人間。
全て、動植物の一生、それは「生」に始まり、「死」で終わる。
「生」で人生が始まり、今ここに存在していることから「生」が確認され、やがて最終的には「死」を
待つこととなる。
「死」を望みたくなければ、生れてこなけりゃ良かったこととなる。
「死」とは、今ここに存在する自分こそが、前提。
地球世界で、人間だけが他の動植物と違う点、
それは、考えること、思索することが出来ること。
人生、七十余年も生きてきて、始めて客観的に人生そのものが見えてきたような
気がする。
女を抱きたい欲望を持ちつつも、男性自身の衰えを自覚してから、本当の女の魅力を発見出来た気もする。
若かった頃の記憶が遠くなるにつれて、学生時代から、汗と油に汚れた頃までが、
まるで夢のようにしか思われず、初めて客観的な人生を人に語る資格を
得られた気がする。
人間は約六十兆個の細胞で構成されていると言われる。
そのうち、約五千万個の細胞が一秒ごとに死に、そして新しく生まれていると言う。
例えば、風呂で流すアカや爪を考えて見れば、直ぐに新しい皮膚、爪も
生まれてきているではないか。
これこそ、あらゆる細胞が新陳代謝されていることの証明だろう。
まして爪の持つ生命力。 人が死んで、心臓が活動を停止しても尚、
成長すると言われる爪の成長力。
通夜の席で、残された人達から悪口雑言が、なお死者に聞こえているという
耳の持つ奇跡。
自分の生命の長さを誕生日から数えては、ならないともいわれる。
生命の歴史は、三十五億年前から始まっている。
初めて地球上に生命が誕生してから、その遺伝子が私達の中にも生きている。
太陽系宇宙、第三惑星の地球、その表面にしわが出来て山となり、更に水蒸気が
発生して海となった。
海の中でミネラル・アミノ酸・蛋白質などから生命が合成され、
その遺伝子が今に続いているのだ。
海中の微生物は進化を続け、魚類となり爬虫類となり、鳥類も生まれ、
やがて哺乳類も登場してきたが、それらの遺伝子が組み込まれ、継承されているから、
今日の人類もあるという認識。
己の遺伝子は両親から受け継がれ、その両親の遺伝子は祖父母から受けたもので、
その祖父母の遺伝子は・・・・。
自分が受け継いだ遺伝子は、子から孫へ・・・・。
このように生き続けてきた遺伝子から見れば、今年、七十四歳の私の正年齢は、
三十五億年プラス七十四歳。
三十五億年も前から遺伝子を受け継いできた命。
このように大切な命、最後の死に際まで充分に使い切りたい。
ミクロで「生」を考えても、作家(医学博士)の渡辺淳一氏は、人生の始まりを誕生日ではなく、母親が妊娠した日から数えるべきだとされる。
例えば、私の誕生日は十一月十六日、母親の妊娠期間を十ヶ月十日とすれば、
その年の一月六日の夜(昼間かも知れぬが)父親の無数の精子中の一つが
母親の卵子に偶然遭遇して、奇跡的に私の命が誕生したと考えられる。
かくも、脆い基盤の上で誕生した自分の「生」。
その「生」のためにこそ「死」がある。
だから、決して「死」を恐れる必要はない。
誰にも必ず訪れるものだから。
必ず死ねるのだ。
考え続けて、悩んでも、例え神、仏に助けを求めても、今、ここに生きている限り、「死」は必然と言えよう。
その「死」を考える無駄な時間と、避けることの出来ないもの、
「死」から逃がれようとする、この愚かさ。
己の誕生が両親の下で、どのようにして、行なわれたのか。
我が子を育てるのに苦労をした体験は、両親が自分に注いでくれた愛情と同質のもの。
ここで、己の「生」の基盤がいかに脆いものであったかを、思い知ることとなろう。
誰でも最初に遭遇することには不安があるものだが、人生初めての体験である
「死」に対して恐怖を覚えるのであれば、順序として、初めて、この世に
「生」を受けた時の感動を思い出してみようではないか。
死ぬのも怖いが、よく覚えていなくても、生まれてくる時も怖かったはずだ。
避けることの出来ない「死」を考える前に生まれてきた時の恐怖を思い出してみよう。
母親の懸命な努力を考えてみよう。
母親の腹から出てきて、この世の空気を始めて吸った時、考え尽くしてから死ぬこと
より、考えることすら出来なかった時の問題として「生」を考えて見ると、
「生」は恐怖そのものだった。
死ぬのを怖がる前に、先ず、生まれた時の感激を思い出そうではないか。
生まれたから死ぬのではなく、死ぬから生まれたんだと思うことが出来ないか。
人間が、人間として生きる価値とは何か。
人生における最も確実な予定である「死」を改めて考える必要があろう。
先ず、現在の「生」があることを前提に、「死」があることを、
自覚しておかねばならない。
逆説的に、生きている限り、必ず訪れる「死」を考える時、最初に「生」を考える
必要が生じてくる。
「生」があるからこそ「死」があるという原則。
「死」があるからこそ「生」があるという原理。
今、ここに現に存在する己。
そこには前提として、絶対確実に訪れる「死」がある。
この現在の瞬間、瞬間は「死」への過程である。
「死」は必然であるが、「生」は自覚を伴わない奇跡であったと言えようか。
「死」は、時期も方法も、ある意味では選択することが出来るが、誰も自分の
「生」の時期や方法を選択した記憶など、あろうか。
自覚もなく奇跡的に生まれた己が、必然的に訪れる「死」について考えることの
愚かさを自覚してみよう。
ここに、他の動物と違う人間の尊厳、精神があることを改めて認識して、
感謝しなければならない。
例えば三十年前に、今日のテレビや携帯電話の普及を、誰が予想し得たか。
他の動植物と違って、唯一、思索することを知り、死を知り得る精神を持つ人間にだけ「魂」があるという考え方は、未だ科学的に、解明されていないだけの
事象と考えられないか。
三十年後の人間世界では、「魂」の存在が常識になっているかも知れない。
他の人を想う気持ちが強い余り、それが死後になっても、見えないところに存在する場合が、あり得ないだろうか。
己が腹を痛めた子供の将来を案ずる母親は、死後になっても、
子供の未来を案ずる気持ちを簡単に消すことは出来ないであろう。
反対に、人間だけが持ち得た精神の中での怨念も死後の世界に存在するのでは
無かろうか。
この年になって、せめて、そう信じたい気持ち。
いくらIT文化が進化した現在でも、地震はおろか台風さえも防ぎ切れない科学の限界。
その限界の向こうに見え隠れするものの正体とは?
現在の人間が見ることの出来ない世界も将来的には常識的に存在するかも知れないし、
それを今日、完全否定することは出来ない。
この悲しみを逆手にとって、安らかに人生の最後「死」を迎えようではないか。
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