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Panzerwrecks 20を読む(4)

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月19日(日)00時34分41秒
編集済
  #10 バルゲパンター
#11 バンター
テキスト翻訳
「おそらくドイツ軍が撤退中の1945年3月22日~23日の間に、パンターを回収しようとしたまま撃破されたベルゲパンター(1944年9月~11月のDemag生産車)。この場所は173高地の東斜面にあたる(Berhidaの東、Küngös村のすぐ北側)。このベルゲパンターは第1戦車師団、第1戦車連隊所属の可能性が高く、回収部隊は損傷したパンターを牽引して3月21日にVeszprémを目指したもののこの地で放棄された。この2両は1mの至近距離で爆発したFAB-100爆弾で炎上し、パンターの砲塔は爆発で吹き飛んでいる。(これ以前に車体右側を貫通した76mm砲によって行動不能となったいた。)」

さて、残念ながら「173高地」の位置はわかりませんが、このあたりだと西側が少し高くなっている(ような気がする・笑)。同じような枝ぶりの木がないかと探したのですが、残念ながら「この木」と特定することはできませんでした。パンターの背後、遠景に家屋のようなものも写っているので、Küngös村のすぐ北側ではないかと思います。画面中央のはっきりした水平線は鉄道線路のようです。

https://www.google.co.jp/maps/@47.0744702,18.1657415,3a,75y,91.17h,79.57t/data=!3m6!1e1!3m4!1s0WyPgKvnKFsThGp2OyTEbw!2e0!7i13312!8i6656
 
 

Panzerwrecks 20を読む(3)

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月18日(土)13時56分24秒
編集済
  #6 3号突撃砲
写真のテキストは「162高地近くのFüle~Blatonfőkajár街道上で撃破された溶接型の防楯を持つMIAG製の3号突撃砲G型で、この地区に投入された第3騎兵師団、第3及び第23戦車師団の典型的な突撃砲である。1945年3月21日又は22日に機関部にFAB-100爆弾の直撃を受けて撃破されたもので、戦闘室の天板が道路脇まで吹きとばされてさかさまになっている。また、前部装甲には76mm砲弾が跳ね返ってくぼみができている。突撃砲は現地改造により戦闘室の前面には大量のコンクリートが盛りあげられ、きれいに整形されている。ドイツ製とロシア製の履帯がされささやかな防御力として前面と側面に追加されている。2か所のブラケットの予備履帯で車体前面を覆う方法はPanzerwrecks7 P49と同様で、同じ部隊と考えられる。」となっています。
Budapeszt Balaton 1945 P25と同じ写真で、ネットではよく見かける写真です。街道のすぐ横を鉄道線路が通っており、場所の手掛かりとなっています。また、真っ平らなハンガリーの田舎で左側の遠景に見える起伏や丘(?)は貴重な位置情報となりました。

https://www.google.co.jp/maps/@47.035546,18.2278178,3a,75y,352.89h,74.02t/data=!3m6!1e1!3m4!1sofYydqLYoqzbqCWce5zKcg!2e0!7i13312!8i6656
 

Panzerwrecks 20を読む(2)

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月17日(金)23時14分44秒
編集済
  #5 4号戦車/70(V)
写真のテキストは「1945年3月21日にLepsényの市内で撃破された4号戦車70(V)の正面からの写真。「22」号車の番号があり、第4騎兵師団、第70戦車猟兵大隊第2中隊の所属車両を示している。この車両はFAB-100爆弾が1mの至近距離で爆発し撃破された。車体の右側に76mm砲による命中痕があるが、損害はなかった。この車両は主砲の外部トラベリングロックが取り付けられていないか、少なくともアーム部分の基部は見当たらない。円弧形状の照準器保護カバーが外れて戦闘室装甲板の上に載っている。」
となっています。
#5は今回初登場の番号です。Lepsényの市内で撃破されたとなっていますが、さすがにこの写真から場所まで特定することはできませんでした。#2と#3が撃破されたOzora村から北方約50Km離れたLepsényまで一気に移動しており、また数字のペンキの色もコントラストが少し違うように見えるので、もしかすると別のチームが調査したものかもしれません。
 

Panzerwrecks 20を読む(1)

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月16日(木)00時10分8秒
  2月13日にUKからPanzerwercks 20が到着し、その内容にしびれています。今回は捕獲番号順に所属部隊、場所、時期が特定されているのにビックリ!それにしても損害のほとんどが空爆によるものとなっており、制空権のない地上軍の悲哀を感じます。
さて、場所が書いてあるとなるとどんなところか知りたくなるのが人情ですよね?
そこでグーグルマップで現地の様子を探してみました。

まずは#3 4号戦車
解説はこんな感じ
「この4号戦車J型は第12SS戦車師団、第12SS戦車連隊所属の「539」号車であり、FAB-50M9爆弾と85mm砲によりOzoraの北側郊外、Sio運河の北側で撃破された。爆弾は右側の履帯下で爆発し、履帯と一番前の転輪を破壊し、同時に85mm砲が貫通して操縦席ハッチの右側を破壊した。この戦車はOzoraで1945年3月11日に撃破された第5中隊所属の3両のうちの1両である。」
補足しますとバラトン湖P61の#2の後方に写っている4号戦車。#2の写真では今まさに調査を受けているところのようです。写真は車体前部左側からのアップで、砲塔に「3」の捕獲番号と「539」の車体番号があり第5中隊第3小隊9号車であることがわかります。
グーグルマップでOzora村の北側を見るとこの辺りは画像のような田舎道ばかりなので場所の特定はできませんが、だいたいこのあたりなのは間違いなさそう。
もう1両の4号戦車の写真は発見されていないので「1」か「4」かが気になります。
https://www.google.co.jp/maps/@46.7595791,18.4261128,3a,75y,126h,81.52t/data=!3m6!1e1!3m4!1sfLYPWxWo5kwEVUj4nt3svg!2e0!7i13312!8i6656
 

到着!

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月 8日(水)23時10分15秒
編集済
  注文していた3冊のうち2冊が到着しました。

Globocnik’s Men in Italy 1943-45
http://amzn.to/2jOGjch

OZAK(アドリア海沿岸作戦地域)で活動した「Abteilung R」を中心とした対パルチザン作戦などなど・・・
「Then abd Now」の写真もあり、いろいろと見どころ満載です。
よしぞうさん、バンケンさんもおすすめ!

艦船模型スペシャル 2016年 06 月号
http://amzn.to/2k7w1oD

特集は「小沢機動部隊エンガノ岬沖海戦」で見どころ満載なのですが、近頃の1/700艦船は信じられないような緻密さなので、老眼の身としてはそこまでやるか?というのが素直な感想(笑
さて今回も本当のお目当ては「日本の客船第7便」浅香山丸です。浅香山丸は昭和12年にパナマ運河経由でニューヨークにシルクを運ぶ高速貨客船として建造されました。昭和16年にパナマ運河の日本船通航が禁止されると早速陸軍に徴用され、開戦時のマレー半島上陸作戦に揚陸母艦として参加しました。昭和18年2月27日、ビルマのモールメイン河口で上陸作戦中に英空軍のリベレーターに爆撃され、積載していた大量のドラム缶入りガソリンが炎上し、5時間後に沈没・着底しました。今回はまさに爆弾命中の瞬間をとらえた英空軍撮影の写真が掲載されています。
 

ポチッとな

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月 5日(日)00時30分27秒
  ソ連軍の捕獲No画像を捜索するうちに「Panzerwrecks20」の内容の凄さを再確認する結果となり、もう我慢できなくなりました(笑
というわけで、よしぞうさんやバンケンさんもおすすめの「Globocnik’s Men in Italy 1943-45」と「艦船模型スペシャル」のバックナンバーとあわせてポチッと注文してしまいました。

Panzerwrecks20(Ostfront 3)
http://amzn.to/2k7pFpt

Globocnik’s Men in Italy 1943-45
http://amzn.to/2jOGjch

艦船模型スペシャル 2016年 06 月号
http://amzn.to/2k7w1oD

Panzerwrecks20が届いたら新規確認Noをご報告します。
ソ連軍捕獲Noの全体像についてはDB103さんのHP→模型雑記帳→1945年ハンガリー戦線におけるソ連捕獲No.について をご覧ください。
http://db103rheingold.web.fc2.com/
 

ソ連軍捕獲NO追加

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月 4日(土)21時56分22秒
  Panzerwercks20のプレビュー画像やらYouTubeのプレビュー動画やらを漁った結果、これだけでも27個もの捕獲番号を確認!どうやら今回は捕獲番号特集号の模様。
こりゃ注文するしかないでしょ!

Ostfront 3 (Panzerwrecks20)
http://amzn.to/2kDb601

さて、画像を漁る過程で別口の画像を発見!
http://arsenal-info.ru/b/book/2671746484/41

ロシア語なので内容はよくわかりませんが、どうやら野砲の効果を検証したようなページらしいです。

新規発見の番号は下記の6個
#N2 パンターG型 小屋の前で放棄。特に目立つ損傷はなさそう。
#34 パンターG型 周辺地面に雪が残る。バラトン湖P67掲載の#34ヤークトパンターとは別車両。
#35 パンターG型 周辺地面に雪が残る。Panzerwercks20掲載の#35パンターとは別車両
#46 パンターG型 周辺地面に雪が残る。バラトン湖P27の4号戦車とは別車両。
#58 パンターA型 周辺地面に雪が残る。無線手席横に大きな破孔あり。バラトン湖P29の#58ティーガーIIとは別車両。
#64 パンターG型 周辺地面に雪が残る。車体に冬季迷彩はなく、損傷もなさそうに見えるが・・・

というわけで、探索はつ・づ・く~!
 

ソ連軍捕獲NOを発見

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月 3日(金)13時55分11秒
  久しぶりに「グランドパワー 2017年 03 月号」を買いました。特集はパンターG型ですがお目当てはソ連軍捕獲NOの新規発見です。結果下記の番号を新しく発見しました。

#42 パンターG型 転輪がすっかりなくなっていることから回収後に部品どりをされた車両らしい。ジャッキがなかったのか地面を掘って転輪を外したようだ。

#54 パンターG型 バラトン湖P1上とは別の車両。転輪がすっかりなくなっていることから回収後に部品どりをされた車両らしいが、機関室の上にラジエターがひっくり返っているなど自爆処分された?

そのほかネットの画像も発見
#69 パンターA型
http://tanktiger.ru/wp-content/gallery/pantery-podbitye/pz-kpfw_-v-15.jpg

なおネットで画像検索してみるとPanzerwercks 20には新しい番号が大量掲載されているらしい。サンプル画像だけでも書ききれないくらいすさまじい状況になっている!
おそロシヤ(笑
 

武装SSのエストニア人部隊

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月 2日(木)21時39分2秒
  武装SS
 1942年8月、エストニア人義勇兵による「エストニア兵団」の編成が下令され、10月8日には最初のエストニア人義勇兵113名が訓練のためデビカSS練兵場へ送られました。「エストニア兵団」の兵力は1943年3月までに969名に達し、第1大隊が編成されてハリコフ方面へ送られ、「ナルヴァ」大隊として第5SS戦車師団「ヴィーキング」に配属されました。

エストニア兵団 1942年10月1日設立
エストニア兵団第1大隊/「ナルヴァ」大隊 1943年3月編成

 1943年3月23日、エストニア人義勇兵による第1エストニア義勇連隊の編成が下令され、5月には第2連隊も編成されてこの2個連隊により兵力約5,000名の「エストニアSS義勇旅団」が設立されました。1943年7月には第2連隊に第660東部大隊と第657東部中隊が編入され、1943年10月22日からは名称も「第3エストニアSS義勇旅団」となり、パルチザン掃討作戦に投入されるためリガ(ラトビア)に送られました。旅団は戦闘団「イェッケルン」に配属され、11月1日からパルチザン掃討に投入されましだが、11月1日からソ連軍の攻勢が始まると11月5日に作戦は中止され、戦闘団「イェッケルン」と共にドリッサ方面での防衛戦に投入されました。1943年12月31日現在の旅団の兵力は、将校178名、下士官864名、兵4057名でした。

エストニアSS義勇旅団 1943年5月5日編成
第3エストニアSS義勇旅団 1943年10月22日改称

 1944年1月24日、旅団は師団へと拡大されることとなり、旅団の2個連隊は「第45SS義勇擲弾兵連隊」と「第46SS義勇擲弾兵連隊」となり、「ナルヴァ」大隊の残余も「SS第20軽歩兵大隊」として再編成のうえ編入され、師団名も「第20エストニア義勇師団」と命名されました。2月始めには師団はナルヴァ戦線での防衛戦に投入されましたが、4月17日現在の兵力は7,760名であり定数の約半数にすぎませんでした。
4月以降には「第45SS義勇擲弾兵連隊」と「第46SS義勇擲弾兵連隊」はそれぞれ2個大隊から3個大隊に拡大され、5月~6月にかけては第658、第659東部大隊を母体として「第47SS義勇擲弾兵連隊」も編成され戦線に到着しました。1944年5月26日には師団名も「SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1)」と改められました。

第20エストニア義勇師団 1944年1月23日編成
SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1) 1944年5月26日改称

 1944年9月18日、ドイツ軍のエストニアからの撤退作戦「アスター」が発動され、師団もナルヴァ戦線からの撤退を開始しし、リバウの防衛戦を経て9月末にはエストニア国境を越え、リガを経由して10月始めには東プロイセンのノイハマー演習場へと輸送され再編成が開始されました。1945年1月12日からソ連軍の大攻勢が発起されると、再編成中の師団にも出撃命令が下され、師団はオーデル川西岸のブリーク付近で防衛戦に投入されました。師団本隊はオッペルン南方で防衛戦を展開し、3月15日にはファルンケベルグ付近でソ連軍に包囲されたものの2日後には何とか西方への突破に成功しました。その後師団残余は第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴィッセル」とともに防衛戦を展開し、ライヒェンベルク(チェコ)で終戦を迎えました。しかしチェコパルチザンによる報復の標的となり、ごく一部のみが西方への脱出に成功してエルベ川を渡り、アメリカ軍に投降しました。

エストニア人義勇兵データ(1944年春)

ドイツ陸軍        5,000名(建設大隊)
武装SS    20,000名
国境警備連隊   20,000名
シューマ大隊     9,000名(警察連隊を含む)
郷土防衛隊(民兵)   5,000名
海軍           400名
トート組織、空軍、RAD他 9,600名
合計  69,000名
 

1944 独ソ・エストニア戦線

 投稿者:のりっく  投稿日:2017年 2月 2日(木)21時38分27秒
  先週28日の土曜日にwowowで放送していた「1944 独ソ・エストニア戦線」が今夜も放映されています。もうすぐラストですが・・・

そこで、エストニアの歴史について調べてみました。

エストニア
 エストニアはバルト三国のうちの北東部に位置し、1938年の時点での国土の面積47,549平方キロメートル、人口は約120万人でバルト三国の中では最小の国でした。
 エストニアの人たちは民族的にはフィン族に属しており、レニングラード地域のボルガ・フィン族に近いのですが、意外にもハンガリーの人たちにより近い民族です。フィンランド湾を挟んだ対岸のフィンランドとの強い繋がりが強く、エストニア語もフィンランド語に近い言語です。

 中世12世紀ころからドイツ人商人がロシアとの交易路として利用するようになり、エストニアの首都であるタリン(ドイツ語ではレヴァル)はその後ドイツ騎士団による北方十字軍の拠点として建設され、バルト海を利用した交易で栄えました。17世紀に騎士団の支配が終了するとエストニアはロシア、デンマーク、スウェーデン、ポーランドなどの周辺の強国の覇権争いの場となり、スウェーデンによる支配の後18世紀にはロシア領へと編入されましたが、ドイツ騎士団の末裔である少数のバルト・ドイツ人貴族は帝政ロシアとなってからも重用されました。

 第1次世界大戦末期のロシア革命によりロシアの支配体制が弱体化すると、エストニアは1918年2月24日に独立を宣言しましたが、これは同時に苦難の始まりでもありました。独立宣言の翌日にタリンは進出してきたドイツ軍により占領されましたが、11月のドイツ降伏により占領は終わり、11月11日にはエストニア臨時政府が復活しました。
しかし今度はボルシェビキ軍が東から進軍してきており、ナルバをはじめエストニアの3分の2を占領されましたがそれ以上の前進は阻止し、12月にはフィンランド義勇兵3,700名も到着しました。イギリスの支援も受けたエストニア軍は1919年2月までにはボルシェビキ軍の撃退に成功しましたが、南部では「バルト国防軍」との戦闘が、北部ではロシア白軍に協力してのボルシェビキ軍との戦闘が続きました。1920年2月2日、ついにソビエト・ロシアとの間の平和条約がラトビアやリトアニアに先立ち締結され、エストニアの独立が確定しました。

 1933年1月、ドイツでヒトラーが政権につくとドイツへの脅威が高まり、1943年1月には「バルト三国間相互了解及び協力条約(バルト協商)」が締結されました。
1939年9月28日、ソ連はエストニア政府に対してソ連軍の駐屯を認めるよう要求し、相互援助条約が結ばれ10月18日からはエストニア国内に3万5000名のソ連軍が駐屯することとなりました。
エストニア陸軍は3個歩兵師団(第1~第3歩兵師団)を中心として1個重砲兵連隊、1個通信大隊、2個建設工兵連隊からなり、このうち第2歩兵師団には1個騎兵連隊を、第3歩兵師団には戦車連隊(戦車18両)を保有し、戦車はマークV重戦車、ルノーFTM1917、TKSを装備していましたが、本気でソ連軍に対抗できる兵力ではありませんでした。

 1940年6月16日、条約違反を口実にソ連はエストニアに対して新政府の樹立とソ連軍によるエストニア占領を要求しました。6月17日にはエストニア政府は屈服し、8月6日には「国民投票」(もちろんでっちあげだが)によりソ連邦に併合されました。
エストニアにはソ連軍16万人が進駐し、同時にNKVDによりまずドイツ系住民12,000名が逮捕され、その内2,000名以上が処刑され残りはドイツへ強制送還されました。エストニア人も35,000名が強制労働に徴集される一方、エストニア軍はソ連軍に吸収され、第22狙撃兵軍団としてまとめられましたが、兵員の構成はエストニア兵16,000名とロシア兵20,000名であり、エストニア人将校はほとんどが収監されるか処刑されており、信用はされていないことがわかります。
 1941年6月6日、ドイツ軍は「バルバロッサ作戦」を開始してソ連への侵攻を開始し、同時にフィンランドもドイツの同盟国となりました。エストニアの首都タリンは8月末にはドイツ第18軍により占領され、「森の兄弟」と呼ばれる反ソ連パルチザン組織がドイツ軍を迎えたのでした。
 

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